室町中世へ

平安中古から室町中世の終わりまで

さて、源平の戦乱が終息し鎌倉幕府、すなわち初めての武家政権が成立するに至って、宗教界もルネッサンスを迎えたといっても良いでしょう。

公家の現世利益に立脚した密教は、公家の没落と共に本来の厳しい姿を取り戻し、また禅宗、浄土宗、法華宗などの鎌倉五山の新仏教が前時代の仏教界のリバウンドとして成立し各宗派の特色をもって研鑽に励みました。また神道界も神宮の神職を中心に、日本本来の宗教、信仰の有り様に立ち返らんとする動きが起こり、神仏双方に内省的な動きが起こります。

またこの時代の特色として、外交上の大きな問題が発生します。
いわゆる『元冦』というモンゴルの大帝国の襲来です。これにより日本各地の大社,大寺では怨敵退散鎮護国家の大願を祈願しましたが、特に最前線であった、筥崎宮においてはその神威により暴風雨が吹き荒れ、2度に渡って襲来した大船団を一瞬のうちに壊滅したとされ、事ここに及んで、神道界に新しい国家意識(ナショナリズム)が萌芽したと言われています。

また、武家の政権が誕生したことにより、いわゆる一所懸命の思想に象徴される地縁、血縁の関係が重視されたため、今日に直線的に連なる氏神信仰が完成される時期でもあり、中でも武士は源氏末裔を称する場合がほとんどであるために、源氏の氏神とされる八幡神が全国各地の武士土豪により祭祀されるに至るのでした。

宗教界全体の流れは、先に延べた通り平安時代のある種おどろおどろしい呪術世界の反省からか、新しい勢力の台頭があったものの、神仏の世界は益々習合の度合いを深め、神護寺、神宮寺、本地垂迹、社僧などなど神社の祭祀も一部を除き僧侶が勤める機会が多くなり、その点において社寺の分別がかなり曖昧になってきた時期とも言えるでしょう。

北条氏の貴族化に伴い諸国の武士は不満を募らせ、元冦にあっては経済的基盤の脆弱さが露出した鎌倉幕府は、家臣の恩賞もままならず、結局は足利尊氏により倒され、室町時代は始まりを告げます。

武家が武家により倒されるというかつてない不穏な幕府の誕生は、世情の不安を掻き立てる様々な反乱の起こる時代となり、太平記で有名な戦乱を制した足利氏も、もともと弱い経済基盤の上に、幕府に名を連ねていた有力な大名がその勢力争いにおいて数々の策謀を巡らし、また天皇家が南北両朝に分裂する異常な一期間を経過したこともあり、そして幕府は京都に幕府を開いたという地理的条件も然ることながら、平家しかり、北条しかり武士がその本分より離れ文化的に貴族化していくと、大体の場合、恩賞において不平が生じ、やがては幕府を支える地盤が崩壊していくわけで、室町幕府は結果としてそれまでの二つの武家政権が崩壊する経緯と同じ轍を踏み、南北朝時代、そして中世の終焉を告げる応仁の乱を引き金に、時代は一気に、戦国時代に突入していくのでした。

かくのごとき混迷を極めていた時代、宗教界は、極めて特徴的な動きをとり始めます。

戦乱により荒廃した神社仏閣の整備もままならず、時代には厭世的なムードが漂う中で、鎌倉時代より端を発した、浄土宗浄土真宗の念仏仏教が、何人も死後、極楽浄土に往生するをスローガンに掲げて全国的な広がりを見せたのです。
他方、旧来の仏教勢力は教化のために積極的に神道と結びつき本地垂迹説を発展し、また、自立する能力のある神職の中には独自の神道論を展開することもありました。しかしながら仏教界の中、日本が神の国であることを熟慮して天神地祇の存在を高く見、神宮の参宮を遂げたり、神道古典の研究をして神道の持つ奥義を理解しようと努め天台座主慈円に至っては「誠には神ぞ仏の道標迹垂とは何故か言う」と詠んで、もはや当時主流となっていた本地垂迹説に疑問を投げかけ、垂迹といわれた神こそが本地ではないかという考えを表わしており、僧侶の苦行修行にあっても、救いの道を感得できない末の信条の吐露ではなかったかと思われます。

平安鎌倉室町と、中世の神道はともすれば仏教に吸収されてしまったかのような諸相を見せますが、鎌倉旧仏教派に属する高僧達の神道への敬意をはらった対応と神祇への接近は自ずと神道界の自覚・自立を促進させ、また、仏教の教義、思想、理論を拝借して平安末期から鎌倉期に成立された様々な神道論、むろん仏教の影響下にあるものですがそれらの延長線上に、意識的に仏教の影響下から離れ、陰陽・老荘の理論を用いて神道理解の論理化に努めるべく努力研鑚に励む神職が室町末期に出現してきたのは、神道を取り囲む宗教界の中世的な変容を締め括る上でも大変興味深い事実ではないでしょうか。