市谷亀岡八幡宮縁起

「八幡」は遠くの神からも見える、数多くの「旗【はた】」を意味します。

神社や信仰の様式は、そう頻繁には変わりませんから、意外に古いままの形を残している場合があります。
そのひとつが、祭の幟【のぼり】や旗【はた】。稲田を吹き渡る秋風に、はためく幟は、鎮守【ちんじゅ】さまのタイコとともに故郷の風物詩でした。この旗が、八幡神とたいへん関係が深いのです。八幡は「ヤハタ」で、数多くのハタ(旗)を意味します。旗を高々と立てて、神のお出ましになる目印にしたのです。
九州の宇佐地方には、このように、旗をひるがえして、神をまつる種族が住んでいたといわれています。古代の旗は、白布や紙、麻糸、小枝などを竿【さお】の先端につけたものでした。夜になると、旗が見えなくなって、神さまが迷うと困りますから、かがり火をたきます。この神火が、燈明になり、チョウチンになっていきました。
ヤハタ、つまり、遠くから見ても異常なほど多数の旗を、しかも、高々とかかげる必要は、どこにあったのでしょう。これはよほど遠くの神を、お呼びするためだったとしか考えられません。

八幡信仰は、日本民族起源の謎を秘めている!?

同じ宇佐では、例年、菱形池のマコモを刈って編み、木枕をつつんで、これを御正体と称したといわれています。この御正体は、年々新たにしますが、古い方を次々と別宮に移し、最後のところで空虚船【うつぼぶね】にのせ、海に戻すのです。
旗を目印に、はるか遠くからやってきた神さまが、木の枕でおやすみになり、やがて海から帰って行く。空虚船というのは、縄文時代に、南方系のひとびとが乗って、日本にやってきた丸木舟のことです。
おびただしくひるがえる旗やマコモ、海、丸木舟と続く一連の神事には、南方系の色彩が濃厚です。もしかしたら八幡宮に近い信仰形態が、すでに縄文時代にあったのかもしれません。
旗と神については、もうひとつの説があります。カラクニ(朝鮮)の城に、八流の幡とともに天降った神が「われは、日本の誉田【ほんだ】天皇(応神)広幡八幡麻呂である」と、名のったといい、この神さまが八幡宮の祖神という見方。この伝承は六世紀頃のもので、八幡神は北方大陸からやってきた、という説につながります。どちらをとるにしろ、八幡信仰の根源には、日本民族形成の重大な謎がひそんでいるのです。

祭神は神功皇后と応神天皇、日本に稲の豊穣をもたらす。

神話時代に入って、八幡神となるのが神功皇后【じんぐうこうごう】。別名を気長足姫尊【おさながたらひめのみこと】といいます。気長【おさなが】は、息が長いという意味ですから、潜水して魚介をとる海人【あま】族のもので、南方系の名前。
たいへん勇ましい方で、夫の忠哀【ちゅうあい】天皇がおなくなりになったあと、御懐妊の身をもって男装し、武内宿禰【たけのうちすくね】をしたがえて、新羅【しらぎ】(朝鮮)に遠征します。海にのりだすと、海中の大魚がより集まって、皇后の船団を背にのせ、風波をまきこみながら矢のように攻め入りました。その勢いに恐れをなした新羅王は、たちまち白旗をかかげるのです。
進攻途中、胎中の御子が生まれようとしたので、石を裳【も】の腰に当てて、これを押さえ、九州に凱旋【がいせん】してから、筑紫で出産しました。御名を誉田別命【ほんだわけのみこと】といい、のちの応神天皇。やがて、八幡宮の主祭神としてまつられる方です。
稲作農業を重視した応神天皇は、河内の広大な湿地帯に進出して、これを干拓し、黄金波うつ稲田に改良します。さらに諸国に海人部と山部を設けて、内政を整え、大和朝廷発展の基礎をかためました。

応神天皇は、日本の酒造り文化と技術を革新した。

大陸文化の輸入にも熱心でした。百済【くだら】から王仁【わに】がやってきて、論語十巻と千文字一巻を献上。儒学【じゅがく】が伝えられたのもこのころです。
酒造りの名人、須須許理【すすこり】もやってきました。須須許理が、腕によりをかけてかもした酒をささげますと、その甘露に酔われた天皇は、うきうきと浮かれ立って
『須須許理の かもしたお酒に わたしは 酔いましたよ
平和なお酒 楽しいお酒に わたしは酔いましたよ』
と歌をよみました。すっかり上機嫌になられた天皇は、ほろ酔いかげんで散策中、道端にあった石を杖でコツンと打ったところ、その石はことことと走り去ってしまいました。
「堅石【かたしわ】も、酔人を避く」という諺【ことわざ】は、ここから出たと古事記にあります。たいへん人間的な天皇だったのです。
須須許理の酒が、日本では最初の醸造酒となったのです。それまでの酒は、乙女にコメを噛ませて醗酵させる、原始的な”口噛み酒”でした。

奈良大仏の無事完成に協力、そして源氏の氏神になるまで。

八幡信仰発祥の地である、九州の宇佐地方は、古銅の産地で、奈良で大仏が鋳造されたときも、その銅が奉納され、宇佐が一躍注目を集めます。銅ばかりでなく、宇佐八幡御自身が託宣をされて、大仏の無事完成に協力しました。
その後、天応元年(781年)に、時の朝廷より菩薩号をたまわり、はじめて八幡大菩薩になりました。平安初期の貞観元年(859年)、武内宿禰の子孫と称する大安寺の僧行教が、宇佐八幡宮の分霊を京都の石清水【いわしみず】に奉じました。祭神が、応神天皇であるところから、皇室の祖神としても崇敬【すうけい】されるようになって行きます。
東国で起こった、平忠常【ただつね】の乱をおさめた源頼信【みなもとよりのぶ】は、石清水八幡宮に願文を納め、戦況を報告するとともに、八幡神の加護を祈りました。八幡神が、源氏の氏神となったのは、このときからです。

八幡様をいただいて源氏快進撃、頼朝、鶴岡八幡宮を創設。

源頼義【よりよし】(頼信の子)の長男義家【よしいえ】は、八幡神の夢のおつげで母が懐妊したというので、七歳のとき石清水八幡宮で元服式をあげ、名を八幡太郎としました。
安部一族による陸奥【むつ】の反乱”前九年の役”が起こったとき、雪の奥州で大活躍するのが、この頼義、義家親子軍団です。北国の反乱は、いったん鎮圧したのですが、こんどは清原家衡【きよはらいえひら】らが争いを起こしました。後三年の役(1083年)です。
再び鎮圧に向かった八幡太郎義家は、勇猛で統率力に富み、たいへん人気のある武将に成長していました。敬神の念があつく、つねに八幡神をいただきながら出陣したので有名です。兵糧の研究家でもあり、納豆を野戦食として採用したともいわれています。
京都から今の東京に抜け、ここで陣容をととのえてから、奥州街道を北上しました。街道筋で宿営するたびに、納豆を仕込んで、部下の栄養にしたといわれ、奥州街道が”ナットウロード”と呼ばれるのは、ここからきたものです。
前九年の役を平定後、頼義は鎌倉の由比郷に石清水八幡宮を勧請して社殿を建立。その後、治承四年源頼朝が鎌倉に入ると同時に、現在地に移して鶴岡八幡宮としました。
このため八幡信仰は、武士一般から民衆の間にもひろがり、全国各地に八幡社が設けられるようになっていきます。

亀岡八幡宮を勤請した道灌は、築城と歌の名人。

つぎに八幡宮史の歴史に名を連ねるのは、室町時代の知将、太田道灌。江戸開発のパイオニアです。永享四年(1432年)、扇谷上杉【おおぎがやつうえすぎ】家の重臣の子として生まれ、幼名を鶴千代、元服して持資【もちすけ】、晩年入道してからの号が道灌です。
太田道灌はわずか二十五歳の若さで、関東平野の要【かねめ】として江戸城を築きます。河越(埼玉県)、岩槻(同)にも城をつくりますが、いずれも地形をたくみに利用した要害【ようがい】で、近代築城術に、なみなみならぬ手腕を示します。
道灌の戦法は出撃専門で、迎撃したことは一度もなく、したがって城下を侵されたこともありません。このため編み出したのが、農民用兵の新戦術。足軽や農兵をゲリラ的に駆使して、敵陣を切り崩して行くという、意表をついた機動作戦です。そのころ戦場で道灌が愛用した軍配団扇【うちわ】が、当社の宝物として残っています。
江戸の城下町は大いに栄え、現在の常盤橋付近には、毎日にぎやかな市が立ち、全国各地からさまざまな物資が集まってきました。
狩りの途中でにわか雨に会い、一軒のあばら屋でミノの借用を申し入れたところ、少女に無言のまま、山吹の小枝をさしだされましたが、その意味がわかりません。
あとになって、 『七重八重 花は咲けども 山吹の みのひとつだに なきぞ悲しき』
の古歌にことよせ、ミノのないことを暗示したことを知り、一念発起して、歌の道に精進したという伝説は有名です。

茶の木稲荷社地内に、江戸城西方の守護として鶴岡八幡宮の分霊を勧請。

道灌は文明十一年(1479年)に、市谷御門内に鶴岡八幡宮の分霊を、江戸城西方の守護神として勧請し、これを鶴に対して、亀岡八幡宮と称しました。のちになって、外濠が完成すると、さらに外郭の地、市谷の稲荷社地内に遷座【せんざ】。この稲荷神社が、現在の茶の木稲荷で、市谷には古くからあったものです。
鎌倉時代、この周辺は市買村と呼ばれ、豪族市谷氏が所領していたといわれています。その市買村の鎮守が、田の神をまつる稲荷神だったわけです。
江戸城と河越城を拠点に、太田道灌の名声が高まるにつれ、その実力に不安を抱いた主君の上杉定正は、道灌を相模国糟谷の館によびよせ、浴室で斬殺してしまいました。五十五歳の生涯でした。

三代将軍家光や桂昌院も厚い信仰。

この由緒ある亀岡八幡宮も、天正年間に戦火で破壊され、荒地と化してしまいました。慶長のころ、この荒廃に憤激した、別当源空少僧都【そうず】は自力で再建しましたが、むかしの規模にはくらべようもありません。 徳川家康が江戸城入城の折、当社の由来をたずね、その後、三代将軍家光から莫大な援助がありました。元禄十五年、将軍綱吉の母桂昌院が亀岡八幡宮の来歴を聞き、神輿【みこし】のたらないのを悲しまれて、黄金を寄進。これによって、三基の神輿が完成するとともに、社のにぎわいも、ますます盛大になって行きました。桂昌院は、たいへん信仰深い方だったのです。 同じ元禄年間に綱吉の側用人で、その権威並ぶ者なしといわれた柳沢吉保が、当社に参詣し、詩歌を献上しています。また、お参りのおり、境内に立ちならぶ露店の品々を、残らず買い上げ、露天商を感激さたという逸話もあります。

江戸市中のきって、祭礼の華やかさ。

江戸時代、亀岡八幡宮の祭礼のにぎわいは、目覚ましく、山の手地区の伊達【だて】をつくしたといわれています。祭の参加者は、旗本に奉公するキリッとした若者や、いなせな町奴【まちやっこ】がほとんどで、それを見物する腰元や武家の娘たちがあで姿をきそい、それを見ようとして、江戸中のひとびとが集まり、たいへんなさわぎでした。そのころの市谷は江戸を代表する盛り場だったのです。
祭は八月十五日で、一年おきに開催されましたが、当日は不思議なほどよく晴れ渡ったといわれています。
境内には、茶屋、芝居小屋、相撲小屋、仲見世、露店が軒をつらねて並び、終日にぎわったのです。左どなりの茶の木稲荷への石段は女坂といって、ここにも茶屋が軒をきそっていましたが、その中に、江戸の侠客、幡随院長兵衛が見染めた茶屋女がいたといわれています。
石段の上には、江戸八所の一つである時の鐘があって、江戸ッ子に時刻を知らせていましたが、明治初年の神仏分離の際に、”神社内に、鐘撞堂【かねつきどう】あるべからず”の達しによって、これを撤去してしまいました。むかしは、七ツの時(午後四時)を合図に境内の諸門をいっせいに閉じたのです。

火災の後遺症も深く、ひっそり迎える明治時代。

亨保十年(1725年)、青山から出火した火事は、みるみる紅蓮【ぐれん】のつむじ風となって、赤坂、四谷、市谷となめつくし、その火勢に本社も類焼、楼門【ろうもん】から鐘楼【しょうろう】、本殿までことごとく灰になってしまったのです。
二年後の亨保十二年に、再建工事にとりかかりましたが、楼門が随身門【ずいしんもん】になり、鐘楼が平棟になるなど、元禄時代の盛大さに比べると、いささか淋しいたたずまいとなりました。
それでも人出が多かったのは、社前の大路が四谷への往来で、ひとびとが混雑するうえ、門前町として、商家が軒をならべていたからです。明治五年に、郷社となりましたが、仏殿や芝居小屋、茶屋などをとりこわし、そのあとに樹木を植えたために、江戸の喧燥【けんそう】がうそのように、すっかり静かになってしまいました。

五百年を越える歴史、多くの人に役立つ神社に。

昭和二十年五月二十五日、空襲によって全焼。このとき、高さ実に五丈(約十五メートル)、周囲一丈五尺(約五メートル)という神木(もと天然記念物)クスノキも焼け落ちてしまいました。昭和三十七年に、現社殿に再建。
1979(昭和五十四)には、亀岡八幡宮五百年祭を無事開催。1999年(平成一一)には、この市谷亀岡八幡宮公式サイト開設。2000年(平成一二)には新生崇敬会発足の予定です。
今後もますます、応神天皇の学問神、八幡太郎義家の弓矢の神、つまり、学問研究と商売的中の神威ますます盛んになりますよう勤めて行きます。