神社と癒し
ケガレ=穢れ=気枯れを祓うこと・・・それが神道における「癒し」です。
『癒し』という言葉を捉えると、最も語りやすい切口が宗教ということになるのでしょうが、教本を持たない神道においては、神奈備の業が即ち『癒し』へのヒントということです。
神道の現在形を象徴するのはまず神社ということは誰も否定しないことだと思いますが、神道は神の力の具現、象徴、依り代として自然を殊のほか大切にします。
従って神社、神域の中には必ず木々が茂っており、人が大自然の一部として自然という大きな生命に所属している点を確認させてくれる点が神道の『癒し』の第一歩と言えるでしょう。
また、川や池そして海に入ってミソギを行なうことも同様の意味で『癒し』の要素が多分に含まれるとともに清浄に向かう心持ちこそ『癒し』の重要な要素と言えます。
神社と言えば大抵は小高い丘の上にあったり、又参道を歩く距離があったりで、鳥居をくぐり手水で清め、ご神前に玉砂利を踏み締めて向かうわけですが、そのプロセスもすでに『癒し』の領域に入っているのではないかなと思うのも然ることながら、日頃神々の十分にお力が発揮できるようにと清められた神域を渡る風、手水の零れる音、鳥のさえずり、木々、草花の色彩どれをとっても人には優しいものです。
参拝はとにもかくにもその段階を踏んで行なわれるのですから、当然それ自体がすでに『癒し』そのものであり、かてて加えて、人は神前で心の曇りを脱ぎ捨て罪穢れを落すわけですから、清々しさがそこに加わりより一層『癒し』場としてクローズアップされるのも当然、冷え切った体に暖かい風呂が心地よいように冷えた心には神様の暖かさが心地よいのは、当然のことなのです。
さりながら、一般に言われる『癒し』場と神社とが最も異なる点は本当の意味で神様の暖かい大御心をすなわち、神様が常に人々に向かってお出しになられているお力を感じ取れるようにならなければいけないというところにあります。
悲しいかな人間は、素直な心をすぐに色々な壁や穢れで隠してしまい、この神様が何時も人に誤った方向に進まないようにと見守る視線を意識無意識に拘らず捉えられなくなっていってしまうわけです。
この状態こそケガレ=穢れ=気枯れであり、ここより立ち直る過程において、参拝→潔斎→祭祀というような段階を経るのですが、表面的にはこれを行なってみても自己満足的な心地よさしか残らないのが実際の話で、重要なのは潔斎に至る過程において、
- 自分の人生来し方を考える、
- その中で意識無意識に拘らず数々の罪穢れを被むるような行ないをしてきたこと、そして自分の中にある善い所も悪い所もきちっと自分で認識する、
- 悪い所の認識は、自分自身の最も汚い部分に触れるためにこれを認めるということは非常に苦痛が伴う、が大切なことであり、それを踏まえた上でご神前に悔い改め、そしてその日以降、過去の行状を二度と起こさないようご神前に誓いそしてその通りに生きて行く、これが人間における神性の回復、つまりハレの状態に向かう段階なのだと思います。
ご神前においてこの状態になれたときに本当の意味での『癒し』がどういうものなのかきっとわかっていただけると思うのですが。
神域それ自体が『癒し』の空間であることは誰しも認めていると思います。
ですがもう一歩踏み込んでみては如何ですか。
実際特別な修行をしなくともこのようになれることができるんです。
人々の心はそのようになれるように神様方より賜っているのですから。
ですから、人の人なる最も善い部分を盲目的に変えてしまうような修行や、全くもって役に立たない超能力に執着するようなことは尽く意味の無いことで、むしろ神仏の加護より遠ざかり、ウツロな心に陥るに過ぎないのです。
いつもより少し素直な心で、いつもより少し我欲を捨てて、魂魄の隅々まで目覚めさせて、心のアンテナをオープンにして、そして過去の過ちを反省し、今日このご神前に参拝できたことに感謝して・・『癒された』と感じたならば、きっと神様はあなたの方を見て嬉しそうに微笑んでいらっしゃいます。そう、特別なことは必要無いのです。
八百万の神々と共に、これこそが神道の基であり『癒し』なのですから。