神道の発生
ファーストインパクトそして中古へ
先に述べた通り、神道は様々な要件を取り入れ、この日本に発生した日本独自の宗教であり信仰です。但し日本の独自のという頭書きがある以上、そのオリジンは縄文時代という時代区分までに溯れるのではないでしょうか。
一般的な意味で神道と言われる神社神道の起源を弥生時代と言われる時代区分に求めることはやぶさかではありませんが、青森県三内丸山遺跡の大規模集団生活の跡や、祭祀殿と思われます。
建造物の跡地を見る限り、縄文人の生活がこれまで一般的に知られている(教科書的イメージで)様な、原始的なものではなく、シルクロードの終着点=始発点的な交易発信地(漆、ヒスイ加工品)という観点が様々な研究により定着してきている事実を看過することはできないのではないでしょうか。
過日「神々の指紋」という書籍が世界的なベストセラーとなりましたが、彼の文化人類学者の観点から見れば、文化の継続性、すなわち次の文化文明は前時代の遺産であるということであり、文化人類学的な立場では、文化的土台の無いところから全く新しい文化を持つ文明が発生する可能性の極めて低いことが検証されつつあります。
推論の域は出ませんが、縄文文化の中に失われた祭祀、神話があるかもしれないと考えるのは然程無理のある推論とは考えられないですが、皆さんはどうでしょうか。
神道イコール日本オリジナルを標榜するならば、やはり2000年という歴史では短過ぎると思われます。
さて、神道の出発点につきまして長々と論じてきましたが、この日本固有の宗教に初めにインパクトを与えたのがやはり仏教という外来の宗教の伝来だと思います。公伝は諸説あるものの538年と言われています。 当初より日本の上流社会に理解されましたが、釈迦ご一代の教えと言うよりも護国的な要素の強い宗教として聖徳太子を中心にして受け入れられました。
また何よりも人々を驚かせたのが、仏教式の伽藍建築と目映いばかりに光彩を放つ荘厳な仏像だったようです。おそらくはこの辺りから神道の磐座神籬から、ご祭神にお鎮まりいただく社殿建築が発生し始めたのではないでしょうか。但し、この相互影響下にあって、神道護持は問仏教支持派が政治的背景もあって争いを起こし、物部氏が蘇我氏に打ちやられてしまったのは全くもっていただけない話ですが、聖徳太子のもと憲法も整備され、仏教と神道の住み分けもはっきりとできてきた頃だと思われます。
何れにせよ仏教が日本に根づくそもそものきっかけの時代が、皇室を始め当時の為政階級が仏教を容認したからに他ならないと言うことです。従って、白鳳天平の両期も、神道は古来よりの国家祭祀を中心に、仏教は中国の影響も受けて、国家護持の色彩はそのままに大伽藍の時代に突入してきます。仏教の教えの範囲はやや野に下り庶民に慈悲という観念が施薬院などという形で流布され、一方外国との交易により体系化されていない密教、いわゆる雑蜜や仙道が日本に流入し、神道の山岳信仰と集合して修験道が成立し始めてきました。
平安時代になると、荘園制度の充実により経済基盤の安定した貴族達がいつしか個人的な祈願を目的として、現世利益を追求した結果、同じく時局に中国より最澄空海がもたらした密教を一躍新時代の仏教として時代の中心に据えました。この時期の神道の特徴は、なんといっても密教の諸仏との習合が上げられます。密教そのものは大日如来を本尊とする金胎両部のヒエラルキーの中に諸仏が治まっている一見すると多神教的な世界が広がるわけですが、その多神教的様相が神道の神々との習合を加速し且つ、仏教会においても積極的に密教を流布するために、一般の人々が密教を受け入れやすいような方便としてそのような理論を展開したようです。事ここに極まれる1例として、神宮の内外両宮を金胎両部に準え、密教の流布に利用していたところでしょうか。
他方この時代は前時代に大陸から渡来した文物が、そもそも為政者のために行なわれていた様々な占術すなわち陰陽道が、かなりこなれた形で野に下り斯界のスーパースター安部清明の登場により、平安時代=現世利益=呪術世界という模式が成立したといっても過言ではないでしょう。神道は密教、陰陽道に影響されながらも個人的な祓いや祭祀(家祓いや病厄除け、隠亡祓いなど)は、主に陰陽師により行われており、住み分けはできていたようですが、さながら混沌の様相を示してまいりました。現在の日本における神社の数はおよそ8万社と言われていますがそのうちのほとんどが稲荷、八幡、天神、神明各社の系統に治まりますが、これは平安的な流行り神(御神威において勝るものを鎮守社として勧請した)の名残りと言われています。