神社とエコロジー

神道・・・それは一貫して自然との調和の思想です。

四方を海に面し、南北に長く又列島の中央部に3000メートル級の山々が背骨のように連なる、この日本国は、皆さんご存知の通り、大変に自然環境に恵まれた国と言えます。
海川山野の恵は、人々に大きな恵をもたらす一方、ひとたび荒ぶれば命に関わる災害が襲うわけで、古代の人々は豹変する大自然の中に、喜び、悲しみ、畏怖、尊敬、愛着、奇跡、不可思議というような感情、ある種の神性を見出したに違いありません。
先人達の生活は自然の力に神を見、又神の力を自然に準えて、敬い、感謝しと、その感情が中心であり、自然とは調和するものであって、制御するものではなく、ましては自分勝手に手を加えて人間の都合良く造成するものでは無かったのです。
ところが、いつしか一部の人たちが、自然に対する畏怖を忘れ、あたかも自分たちだけが地球の自然環境から超越したのごとく振舞い始めたのです。
自然環境が本来備わっている調整能力を無視して効率と採算だけを追求した結果、今日本のそして世界中の自然環境が瀕死の状態です。

さて、最近皆さんが自然や環境問題をテーマとして何事かアクションを起こそうとなさった場合、必ず耳にする言葉にエコロジー(生態学)というのがあるはずです。
この言葉、実は非常に色々な意味を含んでいる言葉でして、意外とそれをご存じでない場合が多く、『エコ』が付いていると「自然に良いことをやっている」式に思われている方がほとんどというのが現状です。
それはそれで大筋で間違いではないのですが、本来はギリシャ語の「家計」を意味する「オイコス」と学問を意味する「ロゴス」を合成した言葉で、19世紀のドイツ生物学者のヘッケルと言う先生が創った言葉なのです。学問としては、生物と環境との相互関係を調べる学問でして、ある地域の動植物群と気象、土壌そして地形などの環境をひっくるめて生態系学と言うのですが、人間もこの生態系の中の一要素として位置づけて、生態系全体を守ろうとするのがエコロジー運動でして、ここ最近の環境破壊や天然資源枯渇の問題が鋭く指摘されるようになり、急速に脚光を浴びるようになったのです。
本邦の先人達は、経験知としてのエコロジーというのを持ち合わせていたようで、実際のところその生活の様式には誠に無駄が無い、無駄が無いということは、資源を無駄に使わないということなので、実に自然に優しいのです。
自然に優しいということはどういうことかと言えば、天地からの授かり物で自分の生活を維持しているという実感があるわけですから、そこには自然に対する崇敬の思いが常に基本にあったと考えられます。
無論、全くの野性のままでは生活が成り立たないのも事実です。
人が集団で生活を始めたならば、その食料を安定して供給するために田畑を開墾し、排泄の処理を考え、水の利用に苦心するわけですから自然に手を付けざるを得ません。
しかし、ここが先人達の素晴らしい知恵なのですが、まず自然には、かなり激しく手を加えてもさほど影響の無い部分と、極めてデリケートな部分があり、丈夫な環境に対して手を加えるのとは、全く異なる力加減でデリケートな部分に接し、ともすればこれを保全するべく努力していたようで、これは現在の河川工事などを計画しているお役人の人たちはぜひ勉強していただきたいところです。
そのなるべく手をつけてはいけない自然条件は、一般に山のテッペンや急斜面、人の住んでいる平野では、台地丘陵の際や水辺なのです。

そこで、考えていただきたいのは、さきほどの自然条件の所には必ずと言って良いほどに、お社が鎮座していて、お社が歴史的に古ければ古いほどその傾向が顕著に表われます。
確かに、地理的条件を考えると、御神体 山の中腹や麓であったり、山や川、海の境界のところには恰も道切の神様のごとくにお社が鎮座していて、一様に鎮守の森を形成しています。
これはもちろん境界というか人の住む所とそうでない所の境界を表わす意味もあったと思われますが、そこに鎮守の森を作り、多くの自然環境を維持してきたことが結果的には自然破壊を最小限に食い止めたのです。
デリケートな自然環境を鎮守の森と位置づけることにより、人が容易に踏み込めない場所を作るということは、時代をリードしてきた先人達の全くもって驚くべき叡智であり、自然に対して感謝と畏怖を忘れない神道信仰の在り方が、これからの地球環境を守る上で、多くの示唆に富むものであると言えます。
ですから、鎮守の森は、またとない学習材料であると共に先人達の残した大きな遺産でもあるわけで、2000年以上の歴史を持つ神道という宗教が、世界に類を見ない自然環境を維持、保全し、次の世代へ残していく、まさにエコロジーの頂点に立つ宗教であるということを認識しなければならないと同時に長い歳月をかけて培ってきた先祖に感謝しなければならないでしょう。
教義を振りかざし、人間以外の全ての自然環境は神が人間のために創ったものだというような増長欺瞞的な信仰原理では、自然は征服するべきものであるのですから、最終的には破壊へと突き進むのが目に見えています。
この地球に優しい神道という信仰を奉じていることをもっと胸を張り、世界中にこのエコロジーの奥義を持つ神道の本質と価値観を伝えなければならない時期に来ているのではないでしょうか。