戦国/江戸/明治維新
戦国・織豊・そして太平の江戸時代から激動の明治維新へ
室町時代の終末は歴史的には全くあっけないほどに瞬間的であったに違いなく、逆に言えばそれほどに歴史の中心に名を上げる戦国大名のキャラクターが強烈だったのではないでしょうか。
神道という宗教の本質的な祈願の根本は、とにかく国家安泰、無事平穏、庶民の末に至るまで須く安寧であるように、という事なのですが、強い戦国大名の国には一時的に安らぎの時間があったのではないでしょうか。
戦国大名はそれぞれの領内において社寺を整備し、門前市を挙げて経済的地盤を確保したわけですから、領内の有力社寺についてはむしろ、室町時代より安定していたのではないかと推測されます。
時代的には殺伐とした時代であり、また武士は足軽に至るまで実力次第で立身出世の叶う時代でしたから、神明仏法の加護によるところは相当に大きいものではなかったのではないかと思います。
戦国大名にしろ、いつ寝首を家臣に掻かれるか解からない時代ですから言うまでもなく「板子一枚下は地獄」の毎日の中で、また自分自身の判断の中で自領が合戦になり、多くの領民を失い、国すら奪われかねない状態の中での自身の判断をしなければならない重圧は想像できないほどの決断力が必要であり、決心の瞬間に身命の加護を祈る気持ちは、現在の我々にも理解できる心情ではないしょうか。
戦国大名下における神社を取り巻く環境は、前時代よりあまり激変することはなかったわけですが、神社仏閣の自営組織であった神人や僧兵などが、強大な勢力を持ち戦国大名のもとゲリラ的参戦を行なう場合もあり、あるいは完全な戦闘集団として戦国大名に交戦するときもあり、つとに比叡山の僧兵と織田信長の戦いは有名です。
また彼らは市の守護者としての役回りを持つ傍ら、市そのものを仕切る者達でもあり神社仏閣の経済基盤を担うものでもありましたから、威勢の強い集団として時には乱暴狼藉もあり大名もその操縦手腕が問われたようです。
また宗教界には極めて大きな事件=セカンドインパクト、がありました。 それは鉄砲伝来と共にポルトガル人がもたらしたキリスト教という全く新しい、それまでとは異なる神を持つ宗教の伝来でした。新しい宗教の伝来の時は旧来の信仰と対立する場合が多いのですがキリスト教が日本に伝来したときもまさにそのような状況でした。耳触りの良いキリスト教の愛の信仰は、被支配者層に浸透するのが早いのですが、仏教と神道の対立そして融和共存の歴史に比較して、原則としては終始対立を起こすものでした。それは何よりも排他独善的な神観念のもたらすものであると共に、伝道師の狂信的伝道によるものでした。
当然神道仏教との対立は凄まじく、相互の信者が対立を起こす経緯はキリスト教の布教のもとに世界中で行なわれてきた搾取と伝統文化の破壊が日本においても繰り広げられるのではないかという危惧がもたらされました。
織田信長はキリスト教を受け入れましたが、それは教義の受容ではなくキリスト教徒が西洋よりもたらす鉄砲の魅力によるものであり同時に、既存の宗教界が、特に僧兵集団が、自分自身に抵抗する組織でありそれを弱体化あるいは破壊するための方便として取り入れたわけでして、当然禁中においてもその教義は受容されませんでしたから、結局国内では一部地域を除いて布教には失敗したようです。
そんな状況でありましたが、キリスト教の愛の宗教としての教えはこれまでとは異なる教えとして、携わるもの達の意図を除けばすばらしい宗教との接触が斯くのごとく不幸な形であった事は惜しまれるとだと思います。
従って、織田信長以降、豊臣政権下ではキリスト教の布教は極めて小規模に、江戸時代には邪教のとして絶対的な禁令となっているのは、天草四郎の乱に集約されますが、為政者にとって決して都合の良い宗教ではないと同時に信者の狂信的結束が如何に政治的に危険であり、また反体制と結束することを恐れたからに他ならないでしょう。
そして、信仰の力のすごさ(ある意味で狂信的な)を明確にしたことが宗教界からもう一つ、念仏仏教が、信者を集め領主を放逐し、宗教による共和国らしきを創ったことが上げられます。
越前、加賀、能登、近畿、三河などで起こった宗教一揆、一向宗の僧侶及び門徒の農民が新興の小領主、土豪層と連合し大名の領国制支配と戦った一向一揆がそれで、中世から続く、武闘的宗教集団の究極の発展系であり、これら集団は豊臣秀吉の天下統一の後、徳川家康の治世のもとやがて穏健な集団に変化していきます。
さて太平の江戸時代ですが、社寺の所管については寺社奉行所により差配されていたのは周知の事実ですが、神社に比較して寺は本山末寺の関係が明確にして支配体制が確立しておりました都合、その制度を神社の管理にも利用した点において、神仏習合の形が極まったということが言えると思います。
幕府は神祇制度や朝儀について基本的に尊重する姿勢をとりました。
このような基本姿勢のもと、応仁の乱以降跡が絶えていた様々な儀式、祭事が復興し、神祇制度のみならず、社家の支配体制も次第に整えられ、吉田家と白河家を中心に神職をその支配下に置くという構造が確立しました。
また由緒ある祭儀の復活と共に、徳川家康を祭った東照宮のように新たに崇拝の対象となった神社も生じてきたのです。
さて、上記について少し詳しく述べて参ります。
江戸時代の神社の特色は、家康を祭る東照宮が建立され、政治的に全国に分布を広げていったことです。これは御師や巫女による、熊野社や八幡社、神明社の分布、病気の流行に伴う牛頭天王社の分布などが全く異なった様相を示し、この時代の大きな特徴の一つとして数えることができます。
神道を中心とした思想の展開もこれまでとは少し様子が異なってきます。
まず特筆すべき大きな特徴は、中世思想の中で主流を占めていた神仏習合的な仏家神道に代わって、儒教と神道との一致を解く儒家神道が台頭してきたことです。この儒家神道による神道の解釈や教学は中世にももちろん存在はしていたのですが、これは神道との思想的一致を解くものではなく、本地垂迹説を逆転させた神道優位の神本仏従説を樹立するために儒教を便宜的に用いたに過ぎなかったのであり、仏教思想そのものも積極的に排斥しようとした動きはなかったのですが、江戸期の儒家による儒家神道は明確な排仏思想に立脚する儒教主体神道思想であり、それは徳川幕府封建体制の主流思想であった儒教の中でもとりわけ朱子学の立場から神道を解釈した思想であると言えます。
この儒家神道の思想や教学を唱え、形成した思想家には藤原惺窩、林羅山、山崎闇斎等の朱子学者があり、後に出る国学と共にこの時代を中核的な神道思想足りえたのであります。
時代を同じくして朱子学者による神道思想に対峙する形で、新たに国学が勃興しました。
学問思想の研究対象を日本の文献に求める国学は賀茂真淵の門人である本居宣長の古典研究によって、仏家神道も儒家神道も本来の神道思想ではないとして退けられるに至り、仏教儒教の立場によらない国学の立場からの神道理解が展開され、やがてそれは国学の神道思想として儒家神道に対する位置を占めるようになりました。
本居宣長の国学における神道思想は、古事記を初めとする古典から導き出されたものであり、賀茂真淵が神道と類似したとする老荘の思想も全く認めてはいない。
社会の出来事は須く神々の仕業であり、その神には善も悪もあり、その仕業を人智であれこれ考えてみたところで理解することは不可能であるとし、神道とは仏教や儒教と異なり、教えを受けたり、授けたりするものではなく『むすひの霊』によって人間は自ら真っ当な行き方ができるようになっていると説き、徹底して人智による神の理解を排斥しただひたすらに古典を読めば自然と神道が会得できるという思想を展開したのですが、この神道不可知論的思想は従来の神道理解の思想は確かに排斥することはできるのですが、他方では古事記の神々の自責を絶対視して人智をいっさい介入させない姿勢をとったために思想宗教としての神道は非常に淡白なものとなってしまいました。
『古事記』重視の姿勢をとるあまり、死後の世界に対する思想・観念の希薄さは神道の宗教性の希薄さと直結する結果となってしまいましたが、本居宣長に国学の神道理解にさらに一歩踏み込んだ形で没後門人である平田篤胤が独自の神道的世界観や宇宙観、来世観を構築したのであり、ことにアメノミナカヌシを主とする造化三神を万物の生成発展の根源とする考えや、死後人間はすべてヨミの国へ行くとした師説を真向から否定し、人間は死後オオクニヌシの主催する幽世に行きオオクニヌシの審判を受けるという考え方は神道の宗教性を深めるものとなった。
こうした篤胤の神道思想は幕末維新の神道興隆に大きな影響を与え、全国各地に多くの門人や没後門人を輩出し、彼らは各地で神葬祭の復興や尊皇運動に従事して、明治維新の思想的原動力のみならず実際の政治的運動にも一定の影響力を持ったのです。